「形への希求」
触覚は帰納であり、俯瞰する視覚は演繹といえる。
「どうも僕は形に反応するようです。 目の前にある形にです。 もちろん自分自身が作り出した形にも同様です。 このことを自覚して以来、 叶わぬこととは思いながら瞬時に気付いた形を目の前にしたいと考え
るようになりました。そんなことを実現してくれそうな素材がダンボールでした。 ダンボールには既に形があります。 資材としてのダンボールは、 更に働きかけると変形し新たな相貌を表します。 その相貌への僕自身の感応を観たいと思う欲求の表れです。 」
2019年7月に開催したマケット(maquette)による個展プレスリリースに寄せたコメントである。作品制作のプラン、エスキース、立体的なドローイングとなるマケットは、以前から陶による大型作品を制作する折に、身近で簡便な素材であるダンボールなどを使い作り続けている。
冒頭の「形への反応」の形とは、自分自身の制作物を含む、人間の生産活動などによって作り出された形態である。形への反応、既に形状をもつ素材が誘う変形と、それへの即座の反応や反射的な再加工への欲求である。また自身が選び出す形の出自を知りたいとの考えが、展覧の試みである。このような個人の欲求が制作のモティーフとなり得るか、またそのモティベーションつまり「形への反応」が生む形態が、鑑賞の対象となり得るかを検証することが目論みでもあった。
造型は偽りではないが人工物であって作り事、つまり虚構である 例えば絵画が、物の形状の写しではなく物の見方であるように、事実そのままを表し出すことではなく、外部世界の見方であり読み解き方である。キャンバスと絵の具が絵画へイリュージョンへと変貌するように、モティーフはダンボールを虚構へと編集する欲求である。物質が表現としての形、造型へと変容する理を知りたいと考えた。
素材とは人間に編集欲求を呼び起こす物質である。素材を目の前にすると古来人間は、無意識に美的な価値への変貌のために手を動かし始める。特別とはいえない身近なダンボールを前にしても、価値の変換は起き得る。しかし制作者の自由な変形は、加工が簡便な素材とはいえその物性によって限定される。さらに言えば、この限定を受け入れて素材の中へ制作者自身を投げ入れることが、制作者の時間的、空間的な自己拡充を保障している。
美術評論家の中村英樹は「視覚的表現の本性を取り戻すことが個人の揺るぎない心の拠り所を生成することによる安定した社会的システムの構築の前提として欠かせない。 」と述べ「もっとも大切なのは、内部の意識作用と外部世界からの刺激が分かちがたく行き交う双方の『境界』自体を顕在化し、その『境界』と対面させることこそ本来の視覚的表現の役割だという認識である。」(1)と論じている。
内部の意識作用を制作者の自意識、外部世界からの刺激を素材が発するものとすると、制作者と素材の繰り返される応答の結果として「境界」は素材が変容した形、作品に顕れる。視覚表現は、意識作用と外部世界の関係性の対象化であると言える。
外部世界としての素材は、制作者の自意識を含む身体によって変形される。変貌した外部世界、変形された素材が再び発する刺激が、制作者の意識作用との新たな関係性を産む。この新しい関係を対象化するために再び外部世界としての素材が変形される。この行いは一度ならず幾度となく繰り返される。
このような運動は、触覚が誘う素材へ対する生理的な反射から引き起こされる。また同時に先にも述べた素材のそれぞれが有する物性、物質としての性質へのせめぎ合いが混交している。
扱いが簡便なダンボールとはいえ加工には技術が介在する。技術にもとづくものが鑑賞性を備えるとすれば、それらは芸術といえる。だが、それらが高い芸術性を獲得するには制作者と素材との生の直接的な交通だけでは期待できない。単なる偶然、刹那な即興のみでは表現とはなり得ない訳である。
技術にもとづくものが鑑賞の対象となり得るには、つまり表現として成り立つには、ディシプリン(discipline、 規律や態度)ここでは芸術的態度が必要である。ポール・ヴァレリーの「生のままの真実というものは詐欺以上に虚偽である」(2)を借りるまでもなく、日常的な生の直接性を超え、意識作用と外部世界との関係性が対象化、つまり仮構されて存在しているかが問われている
作品化に向けて繰り返される素材への加工変形の反復運動は永久ではなく ある時に終えられる。この運動の到達点の根拠はどこにあるのか、単なる制作者の恣意的な判断によるとは考えられない。なぜなら到達点としての作品は、鑑賞の対象となり鑑賞者との新たな運動を始めるからである。
芸術的態度が、モティーフの虚構化、作品化を担保している。虚構化がなされた瞬時に、それまで繰り返されていた素材への変形は終りを迎える。この時「このように見たい」制作者の欲求が「そのように見える」ものとして作品は成立する。制作者の素材の放つ刺激への繰り返された応答の総量が、 変形された素材の変容として顕れる。「そのように見える」とは、制作者、 鑑賞者も等しく喚起される、後述するが、アフェクション(affection)、 情動への揺さぶりである。
さらに、この繰り返される反復運動の停止を告げるのは、制作者の俯瞰の視点である。 造型における俯瞰とは、造型への動機が紛れもなく虚構として、作品に表われ出ているかを検証する視点である。主体としての制作者は「作る視点と、見る視点」を芸術的態度によって具有しなくてはならない。
言語の発生がコミュニケーションの手段としてではなく、生物の視覚の獲得にあるとする思想家、三浦雅士の議論(3)の展開は興味深い。生物が捕食のために視覚を持ったという考えである。生物は視覚を持つことで離れた対象との距離を測ることが可能になった。つまり状況を俯瞰する視点を獲得したわけである。対象との距離を知る、この俯瞰する視点は被捕食者と同時に自身である捕食者をも見ていることになる。さらに人間だけが、捕食の為でなく、俯瞰の為に俯瞰することを知ってしまった。
「私」自意識の発生である。この俯瞰された「私」を対象化するために言語が生まれた。 自意識を表すために言葉を選んで発するのではなく、言葉を出しながら「私」が作り上げられる。外部化された言語が自意識と関係を持つということである。
感応する身体は同時に、感覚されるものでもある。自分の身体を、自身の手で触れることは自身の身体から触れられることである。外部世界との関係も同様で、例えば素材に触れるということは、その素材に触れられることでもある。このことは、視覚についてもあてはまる。見る私と見える外部世界、見えている外部世界から私が見られていると、言い換えても良いかもしれない。制作者は自分の作り出したものから常に見られているわけである。
「見る、見られる」について、2018年9月に開催した「煙のゆくえ」と副題を設けた、個展コメントに触れて考えてみたい
「秋になると、いけないことと知りつつ庭の落ち葉を集めて焚きます。いくらか水分を残した枯葉は、途端に白煙となり風にたなびきその様相を刻々と変えていきます。合理的には燃える具合を見ているはずですが、煙を鑑賞している自分に気付き、その一瞬を切り取りたい欲求に駆られます。そんな動機に意味があるのか逡巡はしますが、確信めいたものがあるのも事実です。
形の在り処を探しているのだと思います。見たことのない、見えないものを作るわけにはいかないからです。水や大気と同じく形状を明示できない、不変の形を持たない土を意図を持って積む仕事を続けています。モティーフは、白煙が誘う私自身が加えた力による土の変容とその姿への呼応です。煙のゆくえの一瞬を読み解きたい動機が、土と身体との幾度とない往還が、形をつくり出していきます。」
主体である制作者が見ている、刻一刻変化する煙の形状から制作者自身が見られている。制作者の意図を持って変形される、可塑性を持った粘土の形態からも同様に見られている。このいずれもが動機、モティベーションである。燃焼によって変化する煙の形状も、可塑性を持つ粘土の形態の両者ともが外部世界に在る。造型への欲求、モティーフが全て外部世界にあることの証でもある。
人間は「見る、 見られる」ものを作り続ける。 動物は単に直接的な肉体的欲求に支配されるだけであるが、人間は食べたり飲んだり眠ったりという生理的欲求を超えて、狩猟採取し栽培し、またこれらを交換する。産業を興し製造し、階級や国家などの制度を生み出したとカール・マルクスはいう。
「動物は自分の属する類を尺度とし、その必要に沿って形を作るだけだが、人間はあらゆる類の尺度に従って生産することができるし、至る所でその場にふさわしい尺度を対象にあてがうことができる。だからこそ、美の法則に従って形を作り出しもするのだ。かくして、対象世界の加工という行為において、人間は初めて、現実に自分が類的存在であることを示すといえる -中略- 生産活動において現実に自分を二重化し、自分の作り出した世界のうちに自分の姿を見てとる。」(4)
人間がものを作り出すのは、作られたものが人間に向かって、自分が何ものであるかを教えてくれるからである。人間は自身によって作り出されたものによって、自己自身を直観することができるわけである。制作者のリアリティからすると、自分で作り出したもので自己自身を知るために作品を制作するといえる。
しかし、自己による自身の直観が鑑賞に値するには、前述の制作者の意識作用と外部世界の関係性の対象化、虚構化が必須である。虚構化されているのは主体としての制作者の外部世界の見方であり、読み解き方である。この制作者の外部世界の感受は、もちろん制作者の意識作用によるものである。しかし、虚構としての作品はすべての人間が共有できる、そこには自他共に共通した無意識が包含されているからである。
もちろん、共有には共感、同意、違和、不快など様々な様相があり得る。共有はアフェクション(affection)、情動を引き起こす。例えば「胸を打つ」「むかつく」「気色が悪い」「腹が煮える」「懐かしい」などである。このような言葉が示すように、造型の共有は鑑賞者の身体、その生物としての最下層、無意識との呼応が密接に関連している。無意識というより、俯瞰の視点が生む「私」よりも、さらに古い層、不可解な生き物としての内臓の感覚が働いている。この古い層、内臓感覚は主体としての制作者の制作動機にも深くかかわっている。無論、鑑賞者も自身の外部世界との関係性を、自身の俯瞰の視線や内臓感覚によって知っている。よって鑑賞者は制作者が対象化した外部世界の受け取り方を作品を通して感応することができる。マルクスのいう「尺度」の差異として共有しているのである。これが制作者の即応性や即興性が鑑賞者との共有可能なゆえんである。
形に戻って考えてみたい。建築家、内藤廣の東京大学での講義録(5)の終盤に学生への問い掛けがある。なぜ人間だけが動物と違い形を求めるのか。ラスコーやアルタミラの洞窟に壁画を描いた瞬間、人間の自意識が生まれ、形は人間にとって言語と同じように不可欠となった。形がある種の感情的な動きを、情緒を引き起こさないことがあるとしたら、それは一体どういうことか。形こそが、生きていること、自意識を持ってしまった人間が発する生命体のメッセージではないか、というものである。
中村英樹が「目と手が育む精神」(6)の冒頭で述べている、生命維持の営みとしての視覚表現と呼応している。「地球上の人類は、生身の体で群れをなして暮らす生き物に他ならない。しかし、外部の世界や他者に対する知覚と対応の仕方を絵画や彫刻、文字、記号などの『手の痕跡』によって仮設的に視覚化し、それと向き合って対話する点で、他の生き物と異なる。そのような営みを通して、人間は自己の存在を確かめ、死すべき身の自己救済の拠り所を見いだし、共存可能な社会のシステムを築き上げようとする。」視覚表現のレゾンデートル、 存在理由である。
アルタミラ洞窟の「感嘆符」と呼ばれる三本指による洞窟天井の粘土質に印された跡がある。これらが教えることは、人間が自らの身体の動きの対象化、三本指の痕跡を見ることによって、さらにこれらの痕跡から見られることによって自己自身を直観した事実である。
「形への希求」は、人間が生物として生命を維持するための必須な営みである。造型への始まりにおいて、主体としての制作者が自律的な想像力を持って視覚の発生を遡行し、触覚に関わることが人間の生命としての在り処を示している。
触覚は帰納であり、俯瞰する視覚は演繹である。
(1),(6)中村英樹著「目と手が育む精神 第1章〈皮膚〉の両義性」(2012.7 思想7月号no.1059 岩波書店)
(2)ポール・ヴァレリー著「レオナルド・ダ・ヴィンチの方法」(1997,6,16 岩波文庫、 山田九朗訳)
(3)三浦雅士著「孤独の発明 または言語の政治学」(2018,6,28 講談社)
(4)カール・マルクス著「経済学・哲学草稿 第1草稿 4疎外された労働」(2010,6,10 長谷川宏訳、光文社古典新訳庫)
(5)内藤廣「形態デザイン講義」(2013,10,10 王国社)
(多摩美術大学研究紀要第34号 2019年)