Essay


石を積むこと

庭仕事の中で「石を積むこと」を経験しました。あまり良い例えとはいえないのですが、代わりに日常生活の些細な行い(本棚や引出の整理など)を思い起こしてください。
石を積みはじめてみると、まずはうまく積みたいという欲が生まれます。せっかく積み上げるのだから、長い時間に耐えられるように立派に仕上げたいという願いです。この欲求は明らかにより良く機能させたい、実用物としての目的を達成したいという動機によるものです。
うまく積みはじめてみると、もうひとつなにやら余分な事柄、美しく積むとか、姿よくなど機能とは無縁の気持ちが介入してきます。なにかを表現しようなどとは考えていないのにもかかわらず、必ず呼び覚まされる感覚や思考やなにものかに驚き、戸惑います。このなにものかが石を持つ手を躊躇させるのです。機能を求める意識とそれだけでは飽き足らない感覚が激しく葛藤をはじめ、作業を辛く困難に変えてしまいます。物を加工しようとする時に必ず立ち現れるなにものか、物と意志とのやり取りの本質を知りたいと思いはじめました。
なぜなら、この出来事は非常に刺激的で、「ものをつくる」ことの根幹にかかわっているように感じるからです。

日常生活が単調で平板で退屈かというともちろん多くの「刺激」に満ち溢れています。ただ日常を単調でつまらないと感じるのは、本当は周りに溢れている多層的で多義な現実の複雑さを見つめる力を無くしたか、あるいは忘れているからです。
そしてこのことを補うかのごとく、多くの「つくりごと」が生産され、人が日常の単調な淵から浮かび上がる活力を与え、平板に見えてしまっている日常から逸脱する手助けをしています。「つくりごと」というと紛い物や絵空事、作り話として揶揄しているかのように捉えられかねませんが「つくりごと」のリアルと、現実は補い絡み合い、お互いを不可欠な無くてはならないものとしているのです。虚と実、うそと本当は分かち難く、絡み合いお互いを必要としているのです。近代化以前は、お祭り・花火・芝居などハレの場の行いに身体と直結して存在してきました。
映像が人の内面において現実と等価になった今、この補完剤として最も有効に機能しているのが情報化による「つくりごと」です。情報の虚構性や、強く仮想しやすい性質がその力を存分に発揮しています。また、伝達が容易な特性が隆盛を保証し、さらに内容が消化吸収され易く提供されているので繁茂しているのです。しかしこの容易さが、ただの楽しみごとと化して一時的な対象として浪費されると、時をかけて深く沁み入るように人に働きかける能力を失ってしまう危険も併せ持っています。簡易補完剤が過剰生産されると、薬物中毒のように常習性を持ち、過剰摂取と大量消費が加速します。

ただここで「つくりごと」のみならず、物を加工しできあがった「つくりもの」を忘れてはなりません。「つくりもの」が果たしてきた役割を看過する訳にはいかないからです。「つくりもの」を実利的機能面や用の美といった機能美だけに焦点を合わせて読み解くと、「つくりもの」の補完物としての機能、日常に活力を与える力を見落としてしまいます。一瞥するだけではつかみ難いのですが、深く人のからだに沁み込む力があるのです。
人が生活の中に自ら物を加工し利用してきた時代、工業と工芸が同義に認識されていたころまでは、人は「もの」をつくりそして使い、利便を享受するだけではなく、日常の平板な淵から人を掬い上げてくれる「ものの力」を知っていたはずです。
例えば、伝統的な「室礼」のように屏風や衝立、掛け軸、襖や欄間、置物が設えられた室内空間。生活の規模・水準に見合った家具や調度、生産用具としての農漁具や日常使いの品々にも人は日常を超える入り口を見ていたのです。物や自然と折り合いをつけることが生活の大半を占めていた時代には、人に至極当たり前に溢れていた能力だったはずです。
日常から「もの」をつくることが駆逐されている今、人は現実に触れ、直視し、感じ、そしてその多様性や多義性を見抜く術(すべ)を失ったか忘れているように思われます。溢れるデジタルの渦の中、この術(すべ)を補うかのように現実と仮想が渾然一体となっているのが高度な情報化社会です。
「つくりごと」は意識の領域にあり、「つくりもの」は意識と物の間にあります。情報化社会はその発展の過程で物の論理を留保したことによって,意識の領域の暴走を許してしまいました。意識は「つくりごと」の領域を押し広げ、侵略された「つくりもの」の世界は「ものの力」を失い、補完物としての役割を、意識の領域へ譲り渡そうとしているかのようです。大量生産・大量消費社会の中で浪費され続けた「もの」を、再び情報化社会が単に表意する手段、記号として消費してしまおうとしています。

石を積む行為は石垣をつくることです。石を移動し、できあがった「つくりもの」は、石垣と呼ばれる人工物にほかなりません。しかし、石を積むといった些細な行為の中、物を加工する過程において立ち現れてくる、意図する意識と、意識の底に広がる意識化できない世界とのせめぎ合い、これこそが人の営為の本質的で重要な骨格を成していると考えます。せめぎ合った総量が「つくりもの」の存在理由を保障しています。
この骨格は脊椎動物のそれのように明らかに認識されやすい構造体として存在していません。せめぎ合いは時代の要請によって様々な姿で人がつくりだした人工物に織り込まれて表出されているからです。農耕社会の作業の寸暇に、愛玩する日用品に、産業社会の物欲を刺激する工業量産品に、時にはいわゆる芸術作品としてその時々の価値観に呼応し、眼の前に現れます。機能を果たし、さらに機能を超えて日常を逸脱する入り口を提供してきました。
高度情報化社会と呼ばれる意識が隆盛し容易に複製される世界では、「石を積む手を躊躇させる」たぐいの感覚は、取るに足らぬ戯事、理解不能な未知、もしくは前近代の因習を伝播するだけとして一蹴され、片隅に追いやられてしまっています。しかし、つねづね人の心は世の中の進む方向とは反対へ動こうとし、逆の流れにバランスを取ろうと必ず動きはじめます。

「こと」に軸足が動き「もの」が追いやられ存在価値が危うくされている今、作り手が試されているのです。時を遡行し「ものの力」が溢れていた生活をノスタルジックに眺めているだけでは袋小路に足を踏み入れるだけです。
「もの」だけが語りえる「こと」の世界を具現化したい、「ものの力」を手にしたいと、やきものにまみれています。ここ数年は粘土を板状にして四角い筒状に組み立て、またその隣に最初のかたちに寄り添うように次の筒を組み上げていき、さらに次から次へと同じ作業を繰り返していく仕事を続けています。手工業的なしんどさを伴った、個人的な営為が蓄積されています。淡々とした作業に、単調で平板な日常が重なります。もちろんそこには華やかなファンタジーなどなく、沈鬱な空気が支配しています。時間はこの単調さを掬い上げてくれることなく進んで行きます。
しかしながらこの沈鬱な時の流れこそ、人が「もの」をつくることで意識と物の論理を繋ぎ、「もの」が機能を超えた価値を孕むために必要不可欠なのです。人が考え、意図するままには物は動かない、このことを受け入れてせめぎ合うことが価値を生んでいると考えています。

この一連の行為には、人間の二足歩行以降、多くの物を加工し続けてきた「手」が介在していることを忘れてはなりません。手は物をつかむことであらゆる可能性を獲得しました。
「手で考える」。やきものを手掛けはじめた折に思わず口をついて出た言葉です。手には脳のように物事を論理化する力も記憶する機能も持っていませんので、珍妙な物言いかも知れません。しかし、やきものに意図して成せる以上の深遠な可能性を物とのかかわりを通して見て取ったゆえのことです。ここでは性急にやきものが人知を超えた営み、土と炎の芸術だとか、技能偏重の技巧主義だなどとの誤解は控えるべきです。
手を介して「ものをつくる」ことは、意識されない領域にある造形する衝動を持続させることです。持続されえた衝動という矛盾を孕んでいます。いかにしてこの衝動を意識の領域へ持ち上げていくかが問われている作業かも知れません。この作業が「工芸」と呼ばれるに相応しいのかも知れません。
これに携わることができるのは「手」だけです。意識の世界と物の世界の往還を許されたのは「手」だけなのです。

またぞろ石を積む手が躊躇しています。

2005.09
井上雅之


『多摩美術大学研究紀要』第20号 2005年、多摩美術大学研究紀要委員会編、多摩美術大学、2006年3月、pp.41-44